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(人気の坂下り・モンテ)
Portugal Photo Gallery --- Monte

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モンテ1
モンテから望む

モンテ2
モンテ山頂

モンテ3
聖母教会

モンテ4
祭壇

モンテ5
急坂

モンテ6
ブーゲンビレア

モンテ7
小さな教会

モンテ8
1854年

モンテ9
守り人の家

モンテ10
民族衣装

モンテ11
お土産店

モンテ12
急坂を歩く

モンテ13
トボガン出発

モンテ14
足さばき

モンテ15
カンカン帽

モンテ16
スリルの急坂

モンテ17
スピード大好き

モンテ18
ひとやすみ

フンシャルの市場

フンシャル43
市場のアズレージョ

フンシャル44
花咲く市場

フンシャル45
太陽の恵み

フンシャル46
果物講座

フンシャル47
カラフル

フンシャル48
赤いシャツ

フンシャル49
花屋

フンシャル50
昔の花売り娘

フンシャル51
名前はバナナ

フンシャル52
魚屋

フンシャル53
露天の花屋

フンシャル54
まちぼうけ



≪マデイラ島の地図≫

☆モンテの説明 (写真の上をクリックすると大きな写真が見れます。)☆
19世紀の後半にヨーロッパ大陸から観光客船の寄港客を目当てに始まり、
上流階級の観光のメッカとしてマデイラが浮上した時代に造られた施設である。
1939年までは歯車式の登山鉄道が乗客を運んでいた。
人気の坂下りのトボガンは、1850年頃に始まった。
世にも不思議なスリル満点の乗り物である。

「ポー君の旅日記」 ☆ 人気の坂下りのモンテ ☆ 〔 文・杉澤理史 〕

≪2006紀行文・17≫
    === 第六章●マデイラ島フンシャル起点の旅A === モンテ

          《めぐみがいっぱい ラヴラドーレス市場に行く》

 「ケイコ、ボンディーア!(おはよう!)」とミラおじさんが放つ笑顔の 挨拶から11月4日(土)の朝が始まった。朝7時のモーニングに1階の 食堂に下りていくと、ミラおじさんは里帰りで来た娘を迎えたような嬉し さだった。焼き立てのパンにコーヒーとオレンジジュース、それにスクラ ンブルエッグが待っていた。簡素な朝食だったが宿泊費からすれば卵料理 はミラおじさんのサービスであろう。(宿泊にはモーニングが付いている が、今まで泊まった宿では卵料理はなかった。安宿しか泊まらなかったか らなあ)

 ポーは卵が大好き人間だ。特に〈湯で卵〉は6個はいける。小学生の遠 足で湯で卵を食べる同級生には嫉妬した。あの頃は、嫉妬する仲間も多か った時代だった。何時か〈湯で卵〉を腹いっぱい食べてみたいと思い続け た時代をポーは生きてきた。そう言えば、ポルトガルに5回も来ているの に〈湯で卵〉を見たことがない。
『ポー、ミラおじさんに感謝だよ!』  相棒も久し振りの卵料理を楽しんでいた。

 「けいの豆日記ノート」
 ホテルのモーニングは、楽しみのひとつである。 どんなに質素な食事だったとしてもだ。 パンとコーヒーだけでもお腹が空いていれば、充分においしいものだ。 お腹がいっぱいになることは、すごく幸せなことだと思う。
 モーニングに卵料理がつくことは、めったになかった。 ハムとか、チーズとか、そのまま食べれるものは、よくあったが。 ヨーロッパでは、生卵は、食べないという。 火を通した卵でないと食べないらしい。 衛生面なのか、好みなのかはわからないが。

 今日もミラおじさんの笑顔に送られ、宿を出た。  朝一番に向かった先は、この町の市民の日常生活を支えるラヴラドーレ ス市場だった。宿から石畳の坂道を下っていくと、あのカフェのおばあさ んが戸口の椅子に座り 「ボンディーア!」と声をかけてきた。  『おはよーう!』と相棒が応えた。おばあさんの顔が笑顔で弾ける。ポ ーより相棒に応えてもらえ、嬉しそうな皺の顔だった。

 ラヴラドーレス市場には300mほどで着く。この辺が町の中心地と錯 覚するほど、午前9時前だというのに人々で賑わっていた。中に入ると色 鮮やかな伝統衣裳を着た花売りおばさん達が沢山の花々に囲まれ迎えてく れる。見たこともない花々からは、まさに南国の香りが漂ってきた。 衣裳が似合うおばさんに聞くと、島に咲く花やアフリカ産、インド産、 南米産の花々が一年中あふれているという。11月の今がこれだ。夏場な らもっと凄いだろうと思う。

 花売り場の隣りからは果物と野菜売り場が延々と連なっていた。大粒の 栗、胡桃、青いみかんに黄色のみかん、真っ赤な林檎、葡萄、マデイラ産 のバナナの他、知らない名前の果物がどの売り場も綺麗に並べられ、まる で絵画を見ているような美しさ。この市場は2階建てになっていて、果物 売り場だけでも50店舗はあるだろうか。果物の香りでむせ返るほどであ った。
 野菜売り場には、さつまいもやレタス、キャベツ、売り娘の顔の5倍も 大きいかぼちゃ、じゃがいも、白かぶ、細長いトマト、にんにくなどの他、 名の判らない野菜が山盛りだ。

 市場の奥に魚売り場の店舗が並び、蛸や烏賊、黒い太刀魚、鰹、鮪の大 きな切り身、鯵に平目、海老などが売られ、日本の魚屋と変わらない。 肉売り場には、ニワトリが1羽ずつ羽根をもぎ取られ、ピラミット状に 山積みされ、牛も豚もマトンも大きな切り身売りだった。
 客は地元の人が多いが観光客も目立った。愛想がいい青年が観光客を呼 びとめ名も知らぬ果物をナイフで切り落として試食させている。緑色のと うもろこしに似た果物をポーも食べさせてもらったが、初めて味わった甘 味と香りの果汁が口の中で広がっていった。

 「けいの豆日記ノート」
 朝の市場は、にぎやかだった。 2階建て市場は、吹き吹けになっていて空がみえていた。 青空にひろがる緑がいっぱいでとてもきれいだった。 ブーゲンビレアの花が満開のころは、もっときれいなのだろうと思う。 それに色とりどりの果物は、南国そのものだった。 かわった果物も多く、とても甘すぎるくらいだった。

          《マデイラ名物トボガンを見にモンテに行く》

 モンテの町に行くにはロープウエイが便利だとトリズモ(観光案内所) のあの美女に昨日聞いていたので、海岸にあるアルミランテ公園からモン テまでを結ぶロープウエイ乗り場に行ったが、乗るのをやめた。 片道9.5ユーロ(1520円)もしたからだ。
 『市営バスで行こう、ポー』相棒の決断は早かった。 地理勘優秀な相棒のその勘にまかせておけばいい。バスの動きを観察し ていた相棒は市営バス乗り場を簡単に見つけた。バス停が5ヶ所あり、そ の中央当りにバス券発売の小屋がある。相棒がモンテまでの券を買った。  『1.4ユーロ(224円)だってさ、お昼はレストランで食べれるね』 嬉しそうな相棒だった。つまり、2人分だと19ユーロかかるところを 2.8ユーロですむ。その差で、ふたりにとっては豪華な昼食となるのだ。
 45分遅れで来たモンテ方面行きのバスは満席になった。 でも観光客らしいのは我々を入れて5人もいたろうか。各停止まりの市 営バスは市民の足だった。足の弱いお年寄りにとってありがたい足なのだ。 フンシャルは坂道だらけの町だったし、坂道を登って行かなければ他の 町にはいけない。

 「けいの豆日記ノート」
 市場の前の道路のもう1本向こうの道路にバス停はあった。 ここには、モンテ行きのバスだけでなく、ほかのバスも止まるらしい。 時刻表があったが、バスは、時間どおりには来ないらしい。 時間に来ることもあるのだろうが、みんなひたすら待ち続けている。 だんだん、人があふれてくる。 文句をいわないところがお国柄なのだろうか。 怒ってもしかたないということもあるのだろうか。

 北方およそ8kmの丘の中腹にある町〈モンテ〉に向かってバスは狭い 坂道をこつこつと登って行く。早く走ることはない。こつこつがいい。そ れだけ景色を堪能できるからだ。白い壁にオレンジの屋根をのせた民家が 続き、一人また一人と市場で買い物をしたお年寄り達が重そうな袋を肩に 降りていく。毎朝の生活パターンなのだろう。運転手のおじさんと会話を し、ひとつ小さな笑みを交わしたおばあさんが降りたところはバス停では なくおばあさんの家の前だった。その光景にポーの心はとろけた。住んで みたいと素直に思った。運転手と市民の生活の香りがいい。観光できてい る身だが毎日の生活を垣間見る嬉しさだった。相棒のカメラが嬉々として 鳴っていた。
 登るにつれて狭い道は急斜面になる。しかし、景色は絶景だった。フン シャルの市街地の先には蒼い空と紺碧の大西洋。それに、豪華客船が白い 走波を引いて港から出ていくのが見える。

 乗車してから40分後、バスは森の中で止まった。  小さな広場にバス停があり5人降りていく。乗客はまだ15人は乗って いた。勿論、相棒とポーもだ。その時だった。運転手が言った。
 「日本人の2人、ここがモンテだよ」と。  慌てて降りた。ふたりは、モンテのバス停は展望台みたいに見晴らしの いい所だろうと決めていた。ポーは相棒と顔見合わせ苦笑だ。 そして目にしたのは、100年以上にはなろうかと思われる大樹に囲ま れた薄暗く肌寒い空間だった。
 バス停の反対側には、洒落たレストラン風の白壁2階建ての建物があり、 オープンテラスには観光客が20人近くいるのが判別できた。その背後の 斜面には、幾重も白い建物が日差しに輝き空まで伸びている。民家という より別荘だろうか。

 「けいの豆日記ノート」
 バスに乗ると、終点で降りることが多く、のんびりと座っていた。 運転手さんが教えてくれなければ、ずっと乗っていただろうと思う。 乗る時に何度も「モンテ、モンテ」と運転手さんに確認したからかもしれない。 それとも、めだっていてよかったのかもしれないが。

 トリズモでもらった資料によると、モンテ山頂の高級別荘は19世紀後 半にヨーロッパの金持ち達が観光客船でやってきて建てた別荘地帯だとい う。その白い建物が斜面に重なり、太陽に当り輝いていた。 バス停の脇に観光客目当ての露天の店がひとつあり、おじさんと5才位 の少年が先客に声をかけている。その光景に相棒の目は、写真家だった。 しかし、売れる気配がない。色鮮やかな刺繍の風変わりな帽子がいっぱ い板の上に並べられているが、買っても即かぶって歩く勇気はわかない。

 狭い広場にタクシーが2台、観光バスが1台入ってきた。タクシーの客 は4人、観光バスの客は数えたら13人だった。   観光バスの乗客はバスツアー客だ。この観光バスツアーも考えていたが 相棒から簡単に却下された。理由は、料金が高い、それだけだった。
 【モンテ半日ツアー(20.6ユーロ)、カマラ・デ・ロボスツアー(20. 6ユーロ)、島西部1日ツアー(41.2ユーロ)、島東部1日ツアー(4 1.2ユーロ)などがある。我々のモンテ半日ツアーは1.4ユーロだ。帰 りはバスを使わず、2時間以上もかけて坂道を歩いて帰ったからだった】
 へんてこ帽子の露天商の脇にある石積み階段の坂道を登る。ツアー観光 客がガイドに引率されて登っていくのを相棒が確認し後を追う。瞬時の観 察が必要だ。何処に行くのだろうか。それを楽しみに同行した。5分ほど 坂道を登っていくと目の前に美しい教会が現われた。ノッサ・セニョーラ・ ド・モンテ聖母教会だった。

 両脇に鐘搭があり、中央に十字架を乗せたなで肩の屋根が挟まれ、その 下に祭壇状の囲みの中にマリアに抱かれたキリストの子供像が白い石で彫 られ浮かび、その下に5つの窓。そのひさしは半円山形半円山形半円と窓 を飾る。その下にアーチが3つ。その中央奥に門扉がある。小ぶりの教会 だった。1470年建立だ。8月15日の例祭には教会の前にある74段 の石段の階段を膝折で祈りながら登る信者で賑わうという。
 その教会の中に入ってみた。小さな空間であったが左の小窓から外光が そっと入って祭壇を照らし、天井画が迫る厳粛さがあった。雲の中にマリ アと天使が描かれていて、その深みの意味はポーには無理だった。でも、 見上げ続けた首筋が痛くなるほどの美しさだった。
 『昼にしようか!』ありがたいお言葉が相棒から放たれた。

 「けいの豆日記ノート」
 ガイド本に、マデイラ島観光バスツアーがあることが書いてあった。 旅行会社やホテルの受付で申し込むことになっていた。 はじめは、タクシーか、観光ツアーでまわるしか方法がないのかと思っていた。 タクシーだとツアーの何倍もの料金を取られるだろう。  昨日、フンシャルのトリズモ(案内所)にいってバスの時刻表を買った。 それで見ると本数はとても少ないが、バスで行けないこともなさそうだった。 そのかわり途中の町は見ることができないが、目的地までは行ける。 料金もすごく安くすむが1番であった。

          《ランチにありつける》

 教会の近くにあるレストランに入った。意外と客が多く3階まで登らさ れた。相棒が頼んだのは、牛串1人前(8.85)ビール(2.0)スプライ ト(1.65)計12.50ユーロ(2000円)。ふたりにとっては豪華な 昼食だ。牛串は大きな皿に焼いた牛肉の塊(かたまり)が5つ、山盛りの ポテトフライにレタスとトマト。肉はやわらかく胡椒のかけ具合がいい。 美味い。冷えたビールが咽喉を鳴らす。
 肉の塊は相棒が3つ、ポーが2つだった。2つでも塊が大きいので満足、 満足。(ポーは3つは無理だと思い、頼んで1つ相棒に食べてもらった)

 食事後、北海道から来たという夫婦に会った。フランスに住んでいると いう娘さんとその旦那さんに息子も一緒だった。マデイラ島で日本人に会 えるとは思わなかったとヨーロッパの旅を毎年続けているというサングラ スに赤シャツのご主人がにこやかに言った。裕福さが伝わってきた。記念 写真を撮り合い別れた。

 相棒が言った。
 『ロープウエイが着く所まで15分で行けるというから行って来るけれ ど、ポーはどうする?ここで待つ?』
 ボデーガードマン役のポーだったが、状況を判断して相棒を往復30分 は大丈夫だろうと判断し、放った。相棒が戻って来るまでレストランで待 つことにした。ポ日辞書で、トリズモから貰った資料を読んで待った。

 「けいの豆日記ノート」
 ロープーウェイは、値段が高いので、乗るのをあきらめた。 昼のランチが2回は食べれそうな値段だった。 せめて、乗り場だけでも見ておきたかった。 途中、植物園の横を通って乗り場に急いだ。 乗り場は、乗り場そのもので、そこから下の景色は見えなかった。
 帰り道に小さな教会があった。 教会のバックの雲の位置が移動するのを待っていると、おじさんが声をかけてきた。 「教会の中を見るか」といっているようだった。 せっかくなので、中を見せてもらうことにした。 ほんとに小さな教会だった。 でも装飾は、とてもきれいだった。

          《トボガンの災い》

 ふと、相棒が気になって3階の窓から眼下を見た。白い上下の服装に 〈MADEIRA〉と刺繍した帯を巻きつけたカンカン帽を被った青年た ちが20人ほど固まって見えた。その先に坂道があり、そこから乗り物に 客を乗せて白い服装のカンカン帽が対になって出発していくのが、見えた のだった。

 ポーの頭の中で電球がひとつポッと灯った。 即、3階からポーは駆け下りていた。目の前から老夫婦を乗せた二人乗 りのソリ状の乗り物が坂道を下って行った。
  「ギャーッ!」と老夫婦の歓喜の雄叫びが尾を引いた。ソリの後ろには 2人の男がカンカン帽をかぶってソリの舵取をしながらくだっていった。 また雄叫びの声を残して50m先の角を左折して見えなくなった。 それが、モンテの名物《トボガン》だったのだ。

 乗り物のソリは質素だ。ツルで編んだバスケットの簡素な乗り物だった。 モンテの高級別荘地にある狭くて急勾配な生活道路を走り下って行くのだ。 当然、人も歩けば車も走る。ツル製のバスケットにはブレーキも舵もつい ていない。舵はカンカン帽2人の体重移動であり、ブレーキは2人の靴底 だった。19世紀中頃から始まったという《トボガン》だが今まで続いて いるから人身事故はなかったのだろう。でも、無謀な乗り物だ。

 相棒が帰ってくるまでポーは、出発点から15mほどの所でトボガンが 下ってくる「キャー!」を待っていた。次々に滑り落ちては来ない。 観光シーズンの夏場だと引っ切り無しに滑り降りてくるのだろうが11 月のオフシーズンだ。観光客は少なかった。
 その時だった。80歳を越したおばあさんが坂道を下ってきた。綺麗な 白髪のおばあさんだった。下ってくるトボガンを視野に入れていた、その 視野の中でおばあさんがよろけた。ポーは、とっさに駈けより倒れこむお ばあさんを左手でキャッチした。しかし、右腕はギザギザの壁を擦り付け ていた。その時は、痛さがなかった。おばあさんの「オブリガーダ!」の 感謝の言葉をいただき、別れた後でヒリヒリが起こり、右腕から血が沸き あがった。その切り傷は、20cmはあった。

 痛さが、頭のてっぺんまで響き疼いた。その時、坂の上に相棒の姿が あった。駆け下って行く《トボガン》をカメラで追っていた。ポーの状 況など知るよしもない。
   痛さで、うずくまる。相棒が駆け下りて来るのが見えた。 右腕の裂傷を見て『転んだの?』だった。ポーは無事な相棒の姿が嬉 しかった。一緒に行ってあげなかったことは、ガードマン失格なのだ。
   その相棒が、リックからタオルを出し、右腕をきつく縛ってくれた。  ドクドクと痛さの音がした。右腕が泣いていた。

 「けいの豆日記ノート」
 人を乗せた籠をすべらせて、トボガンが通って行く。 道路がテカテカに磨かれている。 かなりのスピードで走っていくのに、不思議と事故がないという。 後ろの二人の足がブレーキになっているという。 機械もなにも使わなくても、こんなにおもしろい遊びができるものなのだ。 今はやりのエコなのかもしれない。
 でも、撮影には、動きが早すぎでむずかしかった。 あっという間に通り過ぎて行く。 スピードの落ちる曲がり角とかで待っていた。 乗っている人は、怖いのかなとも思ったが、レンズの向こうでは、笑い顔ばかりであった。 値段がもう少し安ければ、乗ってみたかったなあ。

          《モンテの急坂はつらい》

 ふたりで、トボガンを追って急坂を下る。ぴかぴかに坂道の中央部が 光っていた。それは、何百万回とトボガンが歓喜の観光客を乗せて擦り 下った歴史の証だった。

 狭い急坂の両脇は、高級別荘の建物が緑のふかふかとした木々に覆われ、 長閑に南国の太陽に包まれていた。 2kmも下ってきた所にトラックが 待っていた。そこが、トボガンの終点だった。タクシーも5台待機して いる。トボガンで来た客はタクシーで戻り、トボガンはトラックに積まれ 出発点に戻る仕組みだ。ここまで1時間撮影しながら下ってきた。そし て、更に4kmフンシャルの町まで2時間半かけて急坂を撮影しながら 降りた。
 『膝が、ガクガクだよ』確かに相棒が吐いたように、膝が笑っていた。

 「けいの豆日記ノート」
 モンテから、フンシャルまで、地図でみると1本道で歩けそうな気がした。 トボガンの終点からタクシーに乗るなんてこと、考えていなかった。 初日のボッタクリタクシーのことが頭によぎった。 急坂といっても今までの急坂とは、わけが違っていた。 45度くらいの傾斜は、転ぶと下まで、転がっていきそうだった。 よくこんな傾斜のところに家を建てたと思うほどだった。 歩くのは平気だと思っていたが、さすがにこの急坂には、お手上げだった。 見覚えのあるフンシャルの町並みが見えてきたときには、ホッとした。

 フンシャルのスーパーで相棒が切り傷の薬液オキシドールを0.42 ユーロ(67円)で買って来た。その店先でタオルをはいでドクドクと切 り傷に惜しげもなく振りかけた。「ギャー!」と沁み込む痛さに絶叫だ。 通行人が振りかえった。切り傷が泡を吹いて白く広がる。ジュワジュワ と腕が噴火するような音がした。『辛抱、辛抱!』相棒が吐く。適切な 言葉だった。頑張れ、頑張れ!の言葉は、ポーは好きでなかったからだ。
 宿に着くと、ポーの腕を見てミラおじさんは驚く。  部屋に入って何時ものように万歩計を確認。25579歩だった。 その時だ。『ギャ−!』と相棒の雄叫びが起こった。ベットの下で一 眼レフカメラのふたが開き、フイルムが露出していた。泣きそうな相棒 の顔があった。ベットに置いたカメラが滑り落ちてしまったのだ。

 「けいの豆日記ノート」
 いつも外から帰ってくると、ベットの上に荷物などを広げる。 とりあえず、身軽になりたい気持ちである。 この時もいつものようにバックやカメラをベットの上に置いた。 置く場所がよくなかったのだろう。 30cmくらいしかない高さだったが、落ちた当たり所も悪かったようだ。 カメラの後ろのフィルムの蓋を閉める小さなポッチのところが折れてしまった。
 しっかり閉まってないと、カメラは作動しないようになっているために、 ガムテープでとめるなんてこともできなかった。 「うんともすんとも」いわないカメラを見ると悲しかった。 撮りかけのフィルムは、パーになった。 これは、取り替えたばかりで、数枚しか映ってなかったのが不幸中の幸いであった。 予備のカメラは、あくまで予備であり、使ったことがなかった。 この先、どうしようかの不安が広がっていた。

 予備のカメラを持って来ていたのが救いだった。 今日は3っの『ギャ−!』を聞いた。 トボガンを楽しむ観光客の歓喜の雄叫び、切り傷にかけられたオキシ ドールの沁みこむ痛さに放ったポーの雄叫び、それにカメラ落下の瞬間 を目撃した相棒の悲壮の雄叫びであった。

                              *「地球の歩き方」参照*

終わりまで、旅日記を読んでくださり、ありがとうございます。 次回をお楽しみに・・・・・・・2009年2月掲載

掲載済み関連写真===≪ポルトガル写真集≫2006年版旅日記
前途多難の予感のポルト4 ・2出会いのポルト5 ・3ドウロ川終着駅のポシーニョ ・4アルトドウロの基点のレグア2
輸送基地のトウア ・6ワインの里ピニャオン ・7中継バス地点のヴィア・レアル ・8地上のメトロのポルト6
・9日本語補修校のポルト7 ・10大学の町のコインブラ2 ・11コンデイシャとコニンブリガの遺跡 ・12宮殿ホテルのブサコと天然水のルーゾ
・13フィゲイラ・ダ・フォス ・14リスボン3 ・15サンタクルスとエリセイラ ・16大西洋の真珠・フンシャル

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